鳥取市議会 2022-12-01 令和4年 12月定例会(第3号) 本文
岩国市とは、鳥取城の城主吉川経家の子孫が岩国藩で家老を務めたことから両市の交流が始まり、1995年、平成7年に、郡山市とは、旧鳥取藩士族が1880年から87年、明治13年から20年にかけて、広谷原、現郡山市でありますが、そこに移住し、困難を極めた開拓事業を成し遂げたことが交流の始まりとなり、2005年、平成17年に、それぞれ姉妹都市提携を締結したものであります。
岩国市とは、鳥取城の城主吉川経家の子孫が岩国藩で家老を務めたことから両市の交流が始まり、1995年、平成7年に、郡山市とは、旧鳥取藩士族が1880年から87年、明治13年から20年にかけて、広谷原、現郡山市でありますが、そこに移住し、困難を極めた開拓事業を成し遂げたことが交流の始まりとなり、2005年、平成17年に、それぞれ姉妹都市提携を締結したものであります。
今は埋め立てられていますが、旧鳥取市役所本庁舎付近には薬研堀という仕切りの堀があり、袋川から薬研堀まではおおむね商人や職人の住む町屋地域、そして薬研堀から鳥取城の内堀までの間が武士の屋敷地でした。特に鳥取城周辺は、東館、西館といった池田家の分家をはじめ、重臣たちの屋敷が置かれておりました。明治維新後は、これらの屋敷の多くは鳥取県庁や裁判所、また学校といった公共施設に利用されました。
県庁から北中学校へのお堀端周辺の歩道整備も完成し、日本最長の城郭復元木造橋擬宝珠橋に続き、中ノ御門表門の修復工事も順調に終えて、擬宝珠橋からお堀越しに眺める中ノ御門表門や久松山、仁風閣、鳥取城天球丸跡などの景観は非常に美しく、訪れる人たちの心を和ませる景勝地だと思っています。 しかしながら、鳥取城址周辺にはこれといった公共の駐車場が見当たりません。
これは鳥取城です。少し広げてみます。これ、江戸時代、安政の古地図です。江戸時代以降における鳥取城の成り立ち、当時の土地利用の状況についてお伺いします。
初めに、鳥取城の価値と活用保存・航空測量の必要性に関連してです。 令和4年5月5日、鳥取市教育委員会と鳥取市歴史博物館の共催による鳥取城フォーラム2022、鳥取城が今、問いかけるもの第2弾が開催され、私も参加させていただきました。大変驚くべき内容で、今後、鳥取市の発展のためには欠かせない重要なことだと、また、コロナ復興にも資するものだと感じましたので、取り上げさせていただきます。
……………………………………………………………………………………… 116 太田 縁議員(~追及~交流をより広げるために個人や家族などの単位で往来を促す新た な取組も必要ではないかと考えるが、このことに対する市長の考えについて) …………………… 116 市長(答弁) …………………………………………………………………………………………………… 116 太田 縁議員(~追及~江戸時代以降における鳥取城
なお、これらの道には、約4キロメートルごとに一里塚という目印が置かれており、平成30年に復元いたしました鳥取城の擬宝珠橋のたもとが、この距離を測る起点となっております。 以上です。
78 長坂則翁議員(要望) ………………………………………………………………………………………… 78 太田 縁議員(~質問~高齢者や障がい者などばかりではなく健常者にも優しいユニバー サルな社会を目指すことが今後ますます求められていると思うが、このことに対する市 長の考えについて、鳥取市は地域資源の宝庫であるがそれらを活用していく意義を市長 はどのように考えているのか、最近メディアでも鳥取城
メディアでも鳥取城の特集が取り上げられ、注目が集まっています。市長はどのように受け止めているのかお伺いします。 ◯寺坂寛夫議長 深澤市長。
室町時代後期には、久松山の地形を利用して鳥取城が築かれました。1581年(天正9年)には羽柴秀吉の包囲により、人肉まで食らう悲惨な籠城戦を経ています。江戸時代は、鳥取藩32万5,000石を擁する池田氏の城となりました。明治になって鳥取城は陸軍省によって解体され、山頂には本丸跡、山麓には二ノ丸、三ノ丸跡などの石垣が残っています。そして、1957年(昭和32年)には国の史跡に指定されました。
また、歴史雑誌、歴史道の訪れるべき山城ランキングで見事1位に輝いた鳥取城では、今年創建400周年を迎えた大手登城路で現在中ノ御門渡櫓門の復元を進めており、また、重要文化財仁風閣の保存修理や県と共同で推進している青谷上寺地遺跡の整備など、文化財の保存整備に取り組んでいるところです。
◯尾室高志教育長 この史跡鳥取城跡では現在、大手登城路の整備に取り組んでおりますが、この事業では、建物や石垣の復元だけではなくて、近代以降の改修で機能を失った江戸時代の排水路を復旧するなど、鳥取城が本来持っていた治水・治山機能の回復にも取り組んでいるところです。
最近では、あの幸運のハート型の石はどこら辺にあるのかなどと、仁風閣や鳥取城の話より山のことを聞かれることが多いのだと、仁風閣の管理者から聞いております。窓口でないことは分かっていながら訪ねてこられる市民の方が多くて、昨年7月の熊の出没騒ぎのときには御夫婦が震えるようにして駆け込んでこられ、警察につないだのだと話されておられました。
本市の中心市街地では、16世紀に久松山に鳥取城が築城された後に、袋川を開削して湿地帯から城下町が造営されて、現在の町の原形が形成をされたものであります。城下町鳥取は、久松山や袋川、千代川などの地理的条件の下で形成をされたものでありまして、城下町の内外を分ける外堀の袋川、また、町割りなどの城下町特有の状況が現在も残されているところであります。
また、敷地内には昭和59年に併設された百年館という名前の資料館もあり、ここも何度か訪問させていただきましたが、鳥取城をイメージして造られた外見は美しく、移住当時に使われた貴重な道具や資料の展示には興味を持ちました。釧路市立には校名に鳥取と名のつく小学校・中学校が複数存在することも知りました。小学校の行事等ではしゃんしゃん傘踊りも披露されるそうであります。
鳥取城の近くに県博の貯蔵の課題もあるので、そういったお城の資料施設などもあったらどうかというようなこともありながら、隼Lab.のようなオフィス誘致のことも踏まえて、当面広場だというようなことのようでございます。
鳥取城が擬宝珠橋の復元に次いで今度、大手門の復元に今、作業入っておられます。行く行くは三重やぐらの復元までやりますというふうに鳥取市さんは言っておられます。米子市民もそういったものを指をくわえて見るのではなく、やはりこういった復元ということについて興味を持っておられる、期待をされる方もたくさんいらっしゃると思います。
…………………………………………………………………………………… 175 太田 縁議員(要望) ………………………………………………………………………………………… 175 魚崎 勇議員(~質問~新型コロナウイルス感染症の影響下での鳥取市の経済の現状につ いて、新型コロナウイルス感染症の影響下での鳥取市の農業の現状について、新型コロ ナウイルス感染症対策中である鳥取市の生活様式の現状について、鳥取城復元
1581年に毛利家の重臣、吉川元春の命によって鳥取城主となった経家公は、同年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉の軍勢による鳥取城攻めに際しまして、4か月にわたる籠城戦を展開し、最後は城主としての責を負って自害する代わりに多くの家臣や領民の命を救ったとされております。
東郷湖畔に立つ観光案内板には、天正9年、1581年、鳥取城を陥落させた羽柴秀吉は、羽衣石城の南条元続救援のため、伯耆に進出した。これを迎え撃つため、毛利方の吉川元春は馬ノ山に布陣、秀吉は御冠山に布陣し、両軍が対峙したとあります。 しかし、近年、秀吉が布陣したのは御冠山ではなく、羽衣石城近くの十万寺所在城跡ではないかという論争が起きております。